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算数・数学

12. 公文式から学ぶことと、公文式の問題点 (後)

 

公文式の問題点を、3つ挙げてみます。

 

 

ただし、はじめに断っておきますが、これは、「公文式」を非難中傷するものではありません。

目的は、常にひとつ。それは、「算数・数学教育を通しての子供の幸せ」です。

そのために、この数学教育アカデミーの主張も含めて、学校教育、塾、家庭教師、通信教育、…などあらゆるものが吟味されることが大切です。

この世の中に「絶対よい」というものはありません。どのように優れた教材もどのように優れたシステムも、不完全なところは持っているわけです。それを認識することが、よりよきものへの前進につながります。

そして、それが子供の幸せにつながります。

 

「公文式」は前のコラムで述べたように、優れたシステムだと思います。

いまや世界中の子供たちが「公文式」で学習する機会を持つようになりました。

だからこそ、厳しい吟味も加えられなければなりません。

 

なお、私の吟味の材料は、私が直接公文式に触れることのできたわずかなものに過ぎません。そのような「制約」の中での、私が直接手にしたもの、触れたものからの考察です。ですから、この文章中で「公文式」と述べるところには、そのような偏った部分があるかもしれないことをお断り申し上げておきます。その意味で、「」をつけて「公文式」と表記します。

 

では、考察に入ります。

 

 

 

 

 

問題点1  教材そのものが持つ問題点

 

問題点2  どのように子供にプラスになるのか

 

問題点3  公文のシステムが内包する問題

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1つめは、教材そのものが持つ問題点です。

書店に市販している幼児用の教材があります。これについては、先のコラムで触れました。足し算に入ったとたん、私の基準において、「ダメ!使えない」となってしまう。それまではとてもいいのに、なぜ足し算に入ったとたん「使えない」のか?

実は、これは致命的なのです。

それは、

数式だけで処理しようとしていること

です。これが、実はコラム01で述べた問題点なのです。

 

もう少しくわしく述べてみましょう。公文の幼児用の教材を見てみると、足し算に入るといきなり、たくさんの足し算の式が出てきます。内容は、系統的に+1(足す1)の練習から積み上げていくように整理されているのですが、とにかく、式ばかりです。

 

ここに問題があります。これは、数学教育アカデミーの説く《情知意サイクル》の《意》まできて練習開始となることであって、いきなりやるべきではありません。

 

たとえば、「3」という数字は一つの記号です。それは「3」という「数」の「実体」を表すものではありません。

「3」という「数」の「実体」とは、たとえば、 です。

 

あるいは、 です。

これらを抽象化して、 を「3」という「数」の実体として把握します。

 

それを、「3」という記号にさらに抽象化するわけです。この時点で、位取りという更なる抽象化も可能になります。

 

指導の過程においては、必ずその数学的対象の「実体」を理解させることがまずはじめになければなりません。

これが、《情知意サイクル》の《情》なのです。

 

 

 

ですから、「3+2=5」を初めて学ぶ子供に教えるのであれば、

 

 

 

 

 

 

 


などの例を豊富に見せて、その足し算の「実体」をまず把握させるべきなのです。

その上で、これを、

 

  

 

へと抽象化させます(リンゴやエンピツといった具体物がドッツへと抽象化されます)。

ここまで耕せて始めて、数式「3+2=5」へつないでいく素地ができました。

 

 

 

ここまでの過程がていねいなのが市販のものでは、学研の本なのです。しかし、残念ながら、学研のものも、せっかくここまでていねいにやっているのに、この「ドッツ式」から「数式」へのつなぎがたった1,2ページしかありません。

(ここを、《バリエーショナル・エクササイズ》という手法を用いることによって、さらに段階的にむりなく道をつけていくことができるのですが。市販のものにそこまで出来上がったものがないのは残念です。)

 

 

足し算に入る前までは、公文のものはとてもよくできています。足し算に入ったとたん「ダメ」になるのが、残念です。

 

 

 

 

 

 

さて、上のような過程がなく、いきなり数式による練習で足し算を処理してしまおうとする公文の方法に、10年前私は大いに疑問を感じたものです。それが、10年たった今もほとんど変わっていません。

 

ここから、「公文式」のほかの教材は見てないけれども推察するのです。おそらく、この手法を微積分に到るまで系統的に積み上げていっているのであろうと。

 

このような指導方法によってでも子供は「できる」ようになっていきはします。しかし、このことから派生するのが、次の2つ目の問題点です。

 

 

なお、公文の足し算の指導は、上のようなものの数を抽象化した「ドッツ」ではなく、1つ後、2つ後、…といった「順序数」の概念の方から入っているといえます。これは、「ドッツ」のような静的なイメージではなく、ベクトル的な動的イメージになります。私は、これも試してみましたが、初めて学ぶ幼児には静的なドッツの方が実体を把握しやすいようです。

 

 

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さて、2つ目の問題点は、

上のような「公文式」のやり方で子供が「できる」ようになることが、どのように子供にプラスになるのか、ということです。

 

子供が「できる」ようになるということ事態は、悪いことではありません。

 

私はここで、「公文式」について以前から気になっていた一つの光景を思い出します。

ずっと以前に、テレビで、「公文式」で学んでいる確か小学校2年生くらいの女の子が微分を学習しているというのを放映したことがありました。

それを見て「なんだ、あれは」と思ったものです。

取材している人が微分についてその女の子に何かを聞いたとき、女の子は、「それも分からないんですか?」と取材している人をバカにしたように言ったのでした。

 

小学校で微分の計算ができるようになるということは十分に可能だと思います。

大切なのは、そのことで、

本質的にその子供にとってどんないいことがあるのか?

ということです。

上のような子供にとって、小学校2年生で微分ができるようになって本質的にいいことはない、と私は断言します。

私は、その映像しか見てないわけですが、あのひとことで、この女の子の「微分」は偽ものである、と思いました。

 

本当の微積分の学習には、ニュートンが初めてその概念を発見したときのような「喜び」があります。本当に、その概念を把握することによってその実体が分かっていたら、そしてその概念を把握したときの本当の喜びを知っていたなら、決して知らない人をバカにするようなひとことは出てこないでしょう。

きっと、「喜びをともにしたい」という思いがおこってくるはずです。

質問してくる人が何が分かってなくて何を知りたいのか、そして何をどう教えてあげればいいのか、それを考えられるはずです。

「それも知らないんですか?」などというひとことは決して出てきません。

 

上のような女の子には、間違った教育をしてしまったということです。

算数をできるようになって人をバカにするのなら、算数を勉強しないほうがマシだということです。

 

では、せっかくがんばって勉強したのに、どうしてこんなことになってしまったのでしょう?

《情知意サイクル》の《情》を無視して、ただやり方だけ教えると、本当の算数・数学の持つリズムに触れることはできません。

数学的対象が持つ「実体」を実感的に把握するということは、大脳前頭葉があってできることです。それに対して、計算の仕方を覚えて速くできるようにするというのは、単なる機械的処理であって大脳側頭葉の働きです。大脳前頭葉、大脳側頭葉どちらも大切なのですが、両方をバランスよく育てることが大切なのです。

上の女の子のひとことは、むしろ、大脳前頭葉を無視して大脳側頭葉のみを訓練しようとしたために生じたように私には思えます。これは、一利はあってもなお百害があります。(機械的処理のみでもテストはできるようになりますから、その点が一利といえば一利でしょうか。)

 

 

 

話は変わりますが、計算能力を高めるのに「右脳」を使う「珠算」があります。これは優れた日本の伝統技術です。

また、ドーマン博士の提唱する「ドッツカード」による暗算があります。

このような「右脳」の開発は、豊かな人間性を育みます。直接は数学とは関係ありませんが、それはいいことです。

 

 

しかし、公文の市販の教材を見て思うことは、その教材の方法は右脳を開発するというよりは、左脳の訓練を徹底的に積み上げることによって、より速くより高いところに上っていく、そんなやり方であると私には見えます。これは、かなり「努力」を要するものです。大脳側頭葉(左脳)をかなり加熱させなければならないでしょう。

 

 

 

実際、次のことを検証する必要があるでしょう。

それは、もし仮に、「小学校で微積分をできるようになることが可能だ」ということをひとつの「売り」にするのであれば、いったい何割の子供がそれを達成できているのか、ということです。

果たして、それが、そこで学習するすべての子供が達成できることなのか?それとも一部の子供だけが達成できることなのか?

一部の子供だけができる特異なことを、もしも仮に「その方法で学習すればみんなができるようになる」と世の親たちが受け止めてしまうとすれば、それは、新たな問題を生じさせることになるでしょう。

すなわち、親が、わが子をもっとがんばらせようと「加熱」すること。そして、「できないのは、がんばらないアンタが悪い」と子供の「努力不足」を責めること。

その結果、「できない子供たち」の苦しみが大きくなることです。

 

 

 

相対的な世界で人よりも速く早くできる快感をよしとするのではない。

本当にその数学的概念が分かることの喜びを知ること。それは、自分という絶対的な世界の中でのことです。自分という主体の法が数学的概念という客体の法に触れて、その実体が分かったとき降りてくる喜び(コラム07参照)。さらには、それを人と共有できる喜び。

 

 

 

「公文式」のやり方は、人より早く速くできるようになることを、中心的な目的としているように見えます。

そして、そのような世界では、人より理解が遅くてなかなかついていけず、苦しむ子供が出てくることも、必然です。

いえ。理解が遅いというよりも、『おもひでぽろぽろ』のタエ子のように、本当は数学的に優れている子供が、「どうして?」ということにこだわってなかなか先に進めず、そうして挫折してしまう、と言った方がいいでしょうか?

 

 

計算を中心にして、その「抽象」の世界で一気に解析の世界まで飛んで行くという方法自体を否定するのではありません。文部科学省の指導要領に従っていたら落ちこぼれてしまう子供が、一気にワープして追いつき追い越していく可能性も開いてくれるものです。

けれども、この「公文式」もまた一面的な指導法であることを知っておくべきでしょう(オールマイティではない。ついていけない子供は当然出てくるということです)。

 

「公文式」に欠けている「数学的概念」の伝承は、必要です。

そして、数学的概念そのものを大切にするためには、教材(プリント)を大きく作り変えなければならないでしょう。

最初に述べた、市販の幼児用の足し算教材はホンの一部に過ぎません。

しかし、本当に数学的概念そのものの把握を大切にしようと思ったら、あそこは真っ先に変わるはずなのです。

 

 

 

上に述べた6つのセクションは、かなり私の主観的なものです。これは、私が「公文式」のすべての教材を見た上で言っているのではないことが原因です。市販の幼児足し算の教材から「推測」しているに過ぎません。

けれども、この「推測」には次のような思い入れがあります。

 

 

公文公氏の『悪いのは子供ではない』(くもん出版)の88ページに「吉田君」の話が出てきます。「小4でT教材 (大学相当の解析学序論)を終了…」という一説があります。私も大学で数学を学んだだけに、すごく惹かれます。そういうすばらしい教材があるのなら、そのノウハウを是非知りたい!と思うわけです。

 

 

私が自分の大学での学習を思い出したときに、やはりその概念そのもののイメージの把握に苦労したのを思い出します。

たとえば、解析ではε-δ論法を用います。私はこれは高校のときに学習済みでした。だから、その論法や不等式での処理には苦労しなかったのですが、たとえば位相空間論で最初に出てくる「点aのα近傍」などというもののイメージを頭の中に描くのに苦労したものです(論理的には初歩の初歩のことなのですが)。

 

「抽象的な数学的概念」を扱うことにある程度慣れた数学専攻の大学生でさえこうなのです。

ましてや、小学生で解析学を、ということになれば、その概念をどのようにおろして把握させてあげるのかは、とても知りたいところです。

 

そういうわけで、私は、「公文式」で小学生が大学の数学を学習できると聞いたとき、すごく興味を持ったわけです。

けれども、幼児用の足し算の市販の教材を見たとき、「ちがう」と思ったのでした。

それが、そもそも、コラム09の始まりで、そして、このコラムにつながってきます。

 

本当の大学の数学ではないのなら、「大学相当の解析学序論」というべきではありません。幼い子供が、わけもわかってないのに「自分は大学相当の学習をしているんだ」などと思ったら、天狗になってしまう危険性があります。

 

 

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3つ目の問題点を述べます。

これは、最も私の主観が強く入ります。

 

それは、「公文式」のとっているシステムの持つ問題点です。

 

まったくの部外者である私が、市販のごく初歩的な教材を見て感じた本質的に大きな問題点。そのような問題点をふくんでいる教材。それが、10年前と今と変わってないこと。

ここです。

「公文式」の内部の人で、そこのところに意見は出なかったのでしょうか?

 

私は、前のコラムで「公文式」の言わば「手軽」なシステムを「学ぶべきこと」としてあげましたが、実はこのシステム自体が

自浄作用を欠いてしまう

という大きな欠陥につながっているのではないかと思います。

それほどの高度な専門性なく「公文式」教室の先生になれるなら、上に私が述べたような問題点に、まず気がつかないでしょう。

また、「公文式」が爆発的に世界に拡大していっているのがフランチャイズ的なこのシステム故だとすると、そこにある第一義は「子供」ではなく「拡大」ということですから、仮に問題点に気がついた人がいたとしても、拡大の波に飲み込まれてしまうのだろうと思います。

 

 

実は、私自身が子供に「教える」ということをしながら、さまざまな「限界」の壁にぶつかり、「システム」いうものも研究しました。算数や数学とは関係ないけれども、「スイミング・スクール」のシステムが優れていることにも惹きつけられたりしました。公教育の中にあのようなシステムが取り入れられないものかとも考えました。

そんな中で、「公文式」のシステムについても、これまで、いろいろと推測してきたわけです。

 

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私の手元にあるのはごく一部の材料ですから、はじめに述べたように、ある程度偏った推測になることは起こり得ます。

 

それを承知の上であえてひとこと申し上げようと思うのですが、これは「公文式」だけに関わることではないので、またコラムを別にしたほうがいいでしょう。

 

 

 

前コラムで述べたように「公文式」が世界的に拡大されているという事実と、その「公文式」のごく一部の教材などを手にとって見てそれに満足できない私がいるという事実。

 

そして、今年2月25日に、大東京の真ん中の大書店でさまざまな児童参考書に囲まれながら大きなため息が出たこと(コラム10)を、今また思い出します。

 

 

          

 

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