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07. 「算数・数学が分からない」ということの意味

 

今回は、最も身近な問題、「算数・数学が分からない」ということについて考えて見たいと思います。

 

 

算数も数学も義務教育の中で学ぶようになっています。ということは、日本国民全員が、どこかで算数または数学の学習を通過したことがあるわけです。(現在通過中、あるいは、これから何年か後に突入するという人もいるでしょう。)

 

そして、すでに、通過した経験のある人なら、みんな「フムフム」と納得するでしょう。「算数・数学が分からない」という文の意味を。

 

そこで考えて見ましょう。なぜ納得できるのでしょう?

それは、みんな自分が体験したことがあるからです。「算数や数学が分からない」という体験を。だから、「算数・数学が分からない」という言葉を聞いたとき、自分のその体験を思い出すことができます。だから、納得がいくのです。

 

 

では、その「算数・数学が分からない」という体験が一切ない、という人はいるのだろうか?

 

それは断言できます。そんな人はいない、と。

 

あの日本が生んだ地球の数学者、岡潔先生でさえ、数学的発見の前の「苦しさ」について書いておられます。

つまり、数学的発見があるということは、その前に、「いまだ分からない」という状態があるわけです。岡潔先生でさえも、「分からない」を体験しているのです。

 

 

 

さらに、岡先生は、数学的発見には2種類あると言われ、数学的発見とはこういうものだとズバリおっしゃいます:

 

 

「主体の法が客体の法に関心を集め続けると、やがて客体の法は主体の衆生に現れてくる」

 

 

 

今、ご著書を見て写しているのではなく、私の記憶の中にある言葉を書いているので、もしかしたら細部は間違っているかも知れません。しかし、高校のとき、この言葉に感動し、授業中何度もノートに書いているうちに覚えてしまった言葉です。

岡先生は、解説もしてくださっていました。以下は、私の記憶によるものです。

「法」とは、高次元の存在。「主体」とはこの数学を研究している自分。「客体」とは数学的対象。「主体の衆生」とはこの物理次元の自分。

 

 

つまり、分からないものに関心を集め続けていると、ついに、それまで分からなかったものが分かるようになる。

 

 

平たく言えばこういうことです。

こう書いてしまうと、「なんだ、当たり前じゃないか」と言われそうです。

 

 

しかし、自分の体験を思い出しても、まったくそうだなあ、と思います。それは、研究というほどの大きなものではなく、単に新しい学習内容の勉強のときですが、高校のとき以来自覚してよく思っていました。

それは、新しいことを学習する前は、さっぱり分からない。その学習している対象の意味が分からない。しかし、ずっと勉強を続けていると、分かるようになる。分かってしまうと、さっきまでまったく分からなかったものが、「なんだ、こんなことだったのか」といとも簡単な事に思える。こういう体験です。

誰にもあると思うのです。

私は、これは本質的には「数学的発見」の一種の体験だと思います。

 

 

岡先生は、「考え始めて3日持たずに解決してしまうものは難問とは言わない」というようなことをおっしゃっておられました。そのあたりが、「勉強」か「研究」かの違いでしょうか。そして、岡先生は、「数学的発見は喜びを伴う」とおっしゃいます(ここが大切なところです)。

 

 

 

私が最初にこれを体験したのは、高校2年のときでした。積分の意味を考えていました。「いったい積分ってどういうことなんだろう?その正体は何なんだ?」何日も考えていたと思います。ある夜、その時はやってきました。スーッと霧が引いてその向こうに積分(リーマン積分)の正体がくっきりと正体を現したのを。そして、夜中だったにもかかわらず、部屋の中を飛び跳ねました。同じく数学を志していた旧友に電話したくてたまらなくて、その欲求を抑えるのに苦労しました。(そのものの正体がわかると、そこから派生してくるものすべてが簡単になります。大学に進んでからの解析の学習はとても面白かったです。)

 

 

私は、「数学的発見」というものは、子供にもできると確信しています。それは、学術雑誌に載るような、難しい記号を並べた論文のことじゃない。他の人が聞けば「なんだ、そんなことか」と言うようなことでもいい。

 

 

 

自分の中で「分からない。はっきりさせたい。納得いきたい」という欲求があって、自分で考え続けていると、ついに「分かった!!」と強い喜びを伴ったものがやってくるとき、まさにそれはその人にとっての「数学的発見」なのだと思うのです。

 

 

もちろん、一朝一夕にしてはできないでしょう。

 

しかし、普段の算数や数学の学習のときに、自分の中の「分からない」を大切にして、自分で考えて納得して次に進むということを繰り返していれば、あるとき、「数学的発見」を体験するという天からのプレゼントに恵まれることがあるでしょう。

 

 

そして、これも私の体験から言えることですが、「分からない状態は苦しい。」苦しいけれども、そこでがんばって、その分からない対象に注意を集め続ける。これが、算数や数学の大切な勉強です。

「分からない」ということと、「分かった!!うれしい!!」という体験は紙一重。というか、一枚の紙の裏表のようなものではないでしょうか。

 

 

 

 

 

さて、これで、ようやく話が始めにつなげます。

 

「算数や数学が分からない」という体験は、誰もがする。

そして、「分からない」と「分かった!!」は一枚の紙の裏表。

とするなら、誰もが、「算数や数学が分かる」ことを体験できる、ということです。

 

 

いかがでしょうか? 論理的に自然な帰結でしょう。

 

 

 

 

 

とするなら、今の子供たちの現状は、どうしたことなのでしょう?

… 算数が分からない。分数が分からない。数学が分からない。

そして、分数ができないまま義務教育を終え、高校や大学に行ったりするようになる。

つまり、「算数・数学が分からない」まま終わってしまうという、今の多くの子供たちの現状…。

 

 

何が悪いのでしょうか?

原因があるはずです。

その原因をきちんと突き止めることが、解決への第一歩となります。

どこが問題なのでしょうか?

 

 

「分からない」ことが悪いのではありません。

「分からない」という状態は、「分かる」ための大切な最初の一歩。

 

 

「分からない」まま卒業し、進級していってしまう今の義務教育。

 

実は、義務教育をそのような厳しい状況に追い込んでしまった社会、国のすべてにこそ責任があるのです。そのことを、すべての大人が受け止めて引き受けなければなりません。

 

 

 

 

 

 

 

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