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| お問い合わせ 算数・数学 11. 公文式から学ぶことと、公文式の問題点 (前) コラム09,10で、公文式の市販の教材が出てきました。 それについての私の評価は、辛口でした。 そこの理由についてくわしく述べてみたいと思います。 これには大切な視点が多く含まれています。 そこで、とりあえずは、吟味を前編と後編に分けることにします。 まず前編は、「公文式から学ぶこと」です。 いまや「公文」と聞いたら知らない人はいないくらい知名度は高くなっています。テレビのCMを思い出す人も多いでしょう。 また、小さな田舎の町にも、公文の教室が結構あったりします。 そして何よりも、どんな小さな書店にも、児童参考書コーナーがあるなら必ずといっていいくらい、公文の何らかの教材が置いてあるでしょう。 その中に、絵カードがあります。その大きさといい、絵の美しさといい、申し分ありません。 これらのことがすべて、公文に学ぶことです。 公文公氏の著書『悪いのは子供ではない』(公文公著、くもん出版、777円+税)を読むと、公文氏が自分の子供さんのためにプリントを作り出したのが公文式のそもそもの始まりだったと書いてあったと記憶しています。 ということは、その歴史は浅いわけです。明治以来創業百何年の老舗…というようなものではなく、一人の親が自分の子供のために作り始めたことが、いまや世界に広がってこれほどの知名度を得るに到った。 この、爆発的な拡大力。 また、先ほど述べた絵カードの完成度の高さ。 私も、自分の子供のために多くの絵カードを自作しましたが、あんなきれいな絵は描けません。公文の市販の絵カードはずいぶんたくさん買いました。 また、今手元にないので正確な書名ではありませんが、○歳用 文字のおけいこ、みたいな、たて開きのワークブック(といったらいいのでしょうか?)も、よく買って使いました。 もともと、一人の親が始めた公文式。でも、現在のような教材は一人や二人の手で作れるものではありません。 いったいどうやって、「公文式」というあの一つの「組織」を作り上げたのだろうか?と思います。何らかの「スポンサー」も必要だったでしょう。 私は、公文の教材を多く買ったといっても、それだけですので、それ以上にくわしいことは分かりません。私が判断する材料は、公文が出している市販の教材のみです。 しかし、そこから分かることは、そこに優れた一つの「システム」があるということです。 そのひとつが、公文のプリントです。微積分まで小学生ができるようになっている、と聞きました。なるほど、と思います。実物は見たことありませんが、想像できます。 足し算や引き算、いえそれ以前から始まって、微積分までを、「系統的に」学習できるようになっている、プリント。これは大きなシステムです。おそらく、膨大な量のプリントでしょう。 全部見てみたいな、とも思いますが、見なくても大体分かるような気もします。 それだけのものがあるということ。これが強力なシステムです。 さらに、それらのプリントは、文部科学省の指導要領とはぜんぜん別で、独自のカリキュラムを構成している。だからこそ、小学生で微積分までやれる。 そして、それらのプリントを、実際に運用していくシステムがある。それが、公文式の教室です。 これも、見たことがありませんから、推測して考えるのです。 あのプリントがあり、それを一斉授業という形態では使わない。子供一人ひとりが自分にあったものに取り組んでいく。それを先生が援助する。 うまくできたシステムだと思います。 先述の本にも、プロローグに「一斉授業では必ず落ちこぼれが出る」というところがありますが、そのとおりなのです。これは、論理的必然なのです。 ですから、公文式の指導基本形態は、江戸時代の寺子屋に近いものだと思われますが、何人もの子供がいっせいに前を向いて先生の説明を聞く、という一斉授業の形態よりは、子供個々人によりよく対応できるという点において優れているといえます。 さて、特筆すべきは、あのような系統立って全体をカバーする「プリント」というシステムを持って、さらに個々人に対応する「江戸時代風の寺子屋的形態」という指導形態を設定した時点で、今日の公文の「繁栄」は半分必然となったということです。 これは、どういうことかといいますと、小学校で教師が30人の児童にいっせいに授業をして授業を成立させるというほどの、高度に専門的な指導技術はなくてもできる、ということです。 実際、ちょっと考えてみれば分かるでしょう。公教育は、公教育だから成り立っている面があります。いまや、それは「かろうじて」という副詞をつけてもいいくらいかもしれません。児童みんなを前に向かせるという「指導力」を持ってなければ、児童(小学生といえども大人なみの残酷さも持ち合わせています)はうるさく騒いで授業が成立しない。ましてや、全員に分からせるというのは至難の業です。それほど、高度に専門的な知識と技術とを要求されるほどの算数指導だとすると、私教育でそれが世界に広がるようなことは決してありえません。 世界に広がるには広がるわけがある。 それは、そこまで専門的な高度な技術を持っていなくても、指導できるシステムだということです。 そこが、公文式の優れているところだと、私は思います。 つまり、高度な専門性は、「公文のプリント」が肩代わりしてくれるのです。だから、それさえあるならば、指導者がゼロから勉強してそこまでの知識をつける必要はありません。 ある意味、とても指導は楽だといえるでしょう。 私がこう言ったからといって、公文式の関係者の方がもしそれを聞かれたとしても、私に怒る人はいないでしょう。 学校の公教育は、その意味であまりにも乱暴すぎるといえます。 ひどく言えば、指導要領と教科書と指導書はあるけれど、あとは、現場の教師に丸投げなのです。 今の学校という教育現場で教壇に立って教えることは、本当に、高度に専門的な知識と技術とを要求されます。それだけの力量がなければ、それだけのものに終わります。つまり、授業が分からない子供が分からないままで終わってしまう。 「公文のプリント」のようなものが、学校の公教育の中にもないのだろうか、と私はよく思っていました。 そうすれば、もっと、教えるということが楽になるのに…、と。 以上、「公文式から学ぶこと」でした。公文式の全貌をくわしく知っているわけではないので、あくまでも現時点での、私からみた「学ぶこと」です。 もしかしたら、的外れな事を述べているところもあるかもしれません。 もし、そのようなところに気がついたら、その時点で修正を加えて生きたいと思っています。 後編では、「公文式の問題点」について吟味してみます。 |
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