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03.教え方 分数その3 (割り算@)


映画『おもひでぽろぽろ』に学ぶ

一般サイトのコラムで紹介したあのシーンをもう一度振り返ってみましょう。

 

姉  「分母と分子をひっくり返してかければいいだけじゃない。学校でそう教わったでしょ?」

タエ子「う、ん。」

姉  「じゃあー! どうして間違ったの!?」

タエ子「分数を分数で割るって、どういうこと?」

姉  「え?」

そこで、タエ子は紙をとってりんごの絵を書きます。

タエ子「 個のりんごを で割るっていうのは、

個のりんごを4人で分けると1人何個か、ってことでしょ? 」

                                   

姉  「うーん。」

タエ子「だから、1,2,3,4,5,6で、1人 個。 」

姉はしばらく考えます。

でも、さっき自分が解説した答が ではないことを思い出して、

姉  「ちがう。ちがう。ちがう。ちがう! それは掛け算。」

タエ子「えーーっ?どうして? 掛けるのに、数が減るの?」

姉は説明しようとして少し考えます。けれども、すぐに理由は出てきません。

姉  「とにかく。りんごにこだわるから分かんないのよ。『掛け算はそのまま、割り算はひっくり返す』って覚えておけばいいのよ!」

その場はこれで終わったようです。

夜、テレビを見ながら、となりの部屋で、2人の姉と母親がタエ子が分数の割り算を分かってないことを小声で話しているのが聞こえてきます。それを聞いたタエ子。

タエ子「 個のりんごを で割るってどういうことか、全然想像できないんだもの。」

 では、前掲した3つの視点について考察してみましょう。

視点1:

 たえ子は、「なぜ?」ということ、その納得できる理由にこだわって、納得できなければ先に進めません。いえ。理由以前の、「分数を分数で割る」ということの意味が分からないのです。

 だから、いくら「分数の割り算は割る数の分母と分子をひっくり返してかけるの」と言っても、タエ子にとっては意味がないのです。

 では、

 たえ子のつまずいている、 について、どう支援してあげたらいいのでしょう?

 実は、はじめに述べておきますと、この「分数の割り算」のところは、難しいです。これだけで1冊の本がかけるくらい、いろいろな重要な要素を含んでいます。

 たとえば、もっと小さい子が、

「5−2ってどういうこと?その意味が分からないの。」

と言ってきたらどうしますか? すぐ説明してあげるでしょう。

「それはね、リンゴが5つあったの。そこへ犬さんがやって来てね、2個食べちゃったの。リンゴはいくつ残ってるかな?」

 絵を描きながらこんな風に説明してあげるのではないでしょうか?

 そして、その説明で、子供は納得するでしょう。



これと比較してみてください。

ってどういうこと?その意味が分からないの。」

と言ってきたらどうしますか? すぐ説明してあげられますか?

 ここで、『教える』ということの技術的な側面が要求されます。

 5−2のときのようにすぐには説明できないでしょう。

 また、ああだ、こうだと説明しても、肝心の子供がすぐに納得してくれるかどうかです。5−2のときのようにすぐには理解できないでしょう。

 このように、5や2のような『整数』のときに比べて、『分数』は遥かに内容が高度になっているのです。

 これが、

視点2:

タエ子の「なぜ?」に対して、誰もタエ子が納得いく説明をできなかったという事実

に対する答えの最も中心的な部分です。(この視点2自体も、いろいろな大切な要素を含んでいますが、ここではこれ以上は触れないことにします。機会があれば別コラムで触れることにします。)




 さて、そこで、タエ子のぶち当たっている「分数事件」に焦点をしぼってみましょう。

 タエ子は、「分数を分数で割る」ということの意味が分からないため、先に進めないでいます。

 学校の授業は、このタエ子に答えてくれていません(これはある面で仕方のないことなのです)。また、すでに分数を学んで、今は割り算もスラスラできるようになっているお姉さんが、個人的にマンツーマンで関わっているのに、やはりこのタエ子に答えてくれず、それどころかバカ呼ばわりさえする始末です(これは問題があります)。 



 そこで考えなければならないのは、一般の母親がこのような事態に直面したとき、何ができるのだろうか? ということです。

 学校の先生も、子供に納得させられていない。タエ子に年齢の近い姉も、納得させられない。

 母親は、どうしたらいいのでしょうか?



 学校の先生よりも上手に教えることができるならば問題ありません。

 けれども、はっきり言って、難しいです。

 教科書(書店には教科書ガイドが並んでいます)をごらんになってください。分数の割り算をどのように教えているかごらんになってみてください。

 きっと、むつかしいでしょう。なにやら、ピンと来ないでしょう。



 ここでは、ビックリするであろうことをお伝えします。

 実は、分数の割り算のところを、ほんとうに子供が納得してスイスイ学習していけるような方法は、今のところ教育界に確立されていません。

 だから、学校の先生が一生懸命授業しても、タエ子のような子が出てくるのは当然のことなのです。


 それでも、過半数の子供は、意味は分からないけれど、とにかく言われたとおり覚えようと、やり方を覚えて、テストで点をとって、分かったつもりになっていくのです。実際その生き方で入試もできますから、「分かったつもり」で別に困ったことはありません。


 でも、タエ子のような子供に対しては、いったいどうしてあげたらいいのでしょうか?



 このコラムは、前の2つのコラムとは趣がちがうことにお気づきのことと思いますが、それだけ分数のなかでは、「難関」であるということです。

 ここで、『教える』ということの技術的な側面については、別にコラムを設けて、そちらで集中的にお知らせすることにします。



 先ほど述べた「ほんとうに子供が納得してスイスイ学習していけるような方法」はあるはずです。《スーパーらくらくプリント》はそれを目指す挑戦です。

 《スーパーらくらくプリント》のような教材なしに、素手で教えようとした場合には、失敗する可能性はとても高くなるでしょう。

 けれども、《スーパーらくらくプリント》のような教材を使えば、支援する人の負うべき役割は格段に楽になり、そして成功する可能性が遥かに高くなります。



 したがって、

視点1:

 たえ子のつまずいている、 について、どう支援してあげたらいいのでしょう?

については、

「これで勉強しようね。」と言って、《スーパーらくらくスタディ》に取り組む計画を立てる。

 それが、最もよい方法である、というのが私の現在の結論です。

(もちろん、自分で直接教えてあげられる方は、すぐに教えてあげればいいのです。)





 いかがでしょうか?



 ここまでで、明確なの教え方にはまったく触れていません。実は、そのことに一つの意味があるのです。

 このコラムを作るに当たって、1ヶ月近い時間をかけました。

 はじめにつくったものは、明確な の教え方を明かすものでした。

 けれども、一度作ったコラムをしばらく置いて寝かせておき、また読んで推敲したとき、なにか「ちがう」と感じるものがありました。

 そして、何日もかけた更なる推敲の結果、教えることの技術的な側面は別コラムに分けることにしたのです。



 では、その意味は?



 分数の割り算の指導法は、説明に大変時間がかかります。それほど、内容は難しいということです。しかも、きちんとそれを説明して教えられる人は教育の立場にある人でも、ほとんどいません。

  タエ子の姉もです。あれほど居丈高に教え始めたのに、タエ子の率直な質問に答えることができませんでした。

 ところが、です。

 自分も分からなかったにもかかわらず、あとで「タエ子はバカじゃないの」と言っています。

 問題はここなのです。分かってもないのに、自分はわかっているものと錯覚してしまっているところ。



 一方、タエ子はどうでしょう。このコラムで何度も指摘してきたように、日本中の教育者が解決できていない大問題、「児童が、分数÷分数の意味を納得して理解し、そしてできるようにしていくための教え方はあるのか?」ということを、真っ向から提起しているわけです。

 これは、教育界に対する一大問題提起です。

 つまり、最も本質的なところを鋭く見抜いている、ということなのです。

 一番賢かったのはだれか?

 本質を見抜くことができた「正直」な、タエ子だったのです。

「わからない」ということに正直だったタエ子。

 反対に、本当のところは分かっていないのに、いつの間にか「分かったつもり」になっていた、タエ子の姉やその他大勢の大人たち。彼らの姿は、こうしてみると、イソップ童話『はだかの王様』で「きれいな服だ」ともっともらしく言っていた大人たちにダブって見えてくるでしょう。

 そうなのです。

 つまり、「教える」ということの技術的な側面以前に、人間として正直であらねばならない、ということです。





 そこで、タエ子の「分数事件」に、このまなざしをもって戻ってみましょう。

タエ子「 個のりんごを で割るってどういうことか、全然想像できないんだもの。」

そして、「どういうことなの?」

と訊いてきたとしたら。

あなた「うーーーーん。どういうことなんだろう?? 本当だ。難しいわね。お母さんも分からないわ。」

 これが、受け止める第一歩ではないでしょうか?

 もちろん、説明して納得させてあげられるならそれにこしたことはないのです。でも、もし納得させてあげられないなら、そのとき、自分もタエ子と同じ地点にいるんだということを自覚して、同じ目の高さで一緒に考えてみること。この姿勢こそが大切ではないでしょうか?

 そして更に、「分数の割り算に関する全体的な背景」をお母さんが知っているなら、どうでしょうか?

 つまり、「教育者でさえ、子供が分かるように説明することが難しい問題」に、今タエ子は果敢にも独りで取り組んでいたということ。

 どうでしょうか?

 小さなタエ子が、果敢な勇士に見えてこないでしょうか?

 そうすると、思わずこんな言葉が口から飛び出してこないでしょうか?

「タエ子ちゃん、そんなに難しいことを考えていたの!? すごい。えらいわねえ!お母さんなんか、そんなこと考えたこともなかったわ。お母さん、見直しちゃった!」

 このように、受け止めてくれる人がいたら、その後のタエ子の算数に対する取り組みはまたぜんぜんちがってきたことでしょう。

 つまり、分かる説明をしてあげることだけが、タエ子に「応える」ということではない。分からないながらにも、できることがあるということです。



 ただし、このように、「問題の背景」を知っているのと知らないのとでは、関わり方に雲泥の差が出てきてしまいます。

 このコラムは、そのように、「背景」を知っていただくことを主な目的としています。

 このコラムは、中には難しいところもあるかもしれません。そういう時は、ここでの話を思い出していただけたらと思います。






 さて、もう一度、

視点1:

 たえ子のつまずいている、について、どう支援してあげたらいいのでしょう?

についてです。別コラムに明かしていきますが、この視点1に関して、このコラムでようやく一つの結論を述べることができます。

 それは、

あなた「 をリンゴで考えるのは、大人でもすぐには分からないくらい難しいことなのよ。お母さんだって分からないわ。そしてネ、これにいきなり挑戦しようとしたら、倒れてしまうの。山登りを考えてごらん。この間、奥多摩の山に登ったでしょ?タエ子、ハアハア言っていたわよね。アレの5倍高い山へいきなり明日登れるかな?ムリよね。死んじゃうわね。だから、いきなり大きな山に登るんじゃなくて、小さなところから経験をつんで、だんだん大きなものに挑戦していくのがいいの。」

 つまり、 をリンゴで考えるのは、今はわからなくていい、ということを明確にしてあげることです。

 同時に、

あなた「そんなに難しいことを考えていたなんて、えらいわ。じゃあ、その勢いで、明日から一緒に分数のお勉強をやろうか!」

 これで、どうでしょうか?

 丸腰で、何もなければ、明日からのお勉強は1日にして挫折、ということにもなりかねませんが、わたしたちには《スーパーらくらくプリント》があります。6年生なら、1日に10枚でもできます。タエ子はすでに一度学校で学習していますから、1日に10枚ずつ、2週間でB1-5ユニット(割り算)をやりあげる、というような集中的なやり方も十分に可能です。








 最後に、3つ目の視点です。

視点3:

 タエ子が持って帰ってきた算数のテスト。お母さんが目を丸くするような「悪い」得点だった算数のテスト。実は、この1枚のテスト用紙には、タエ子の切なる心の声が秘められています。それは、たえ子自身、自分では意識していないかもしれません。それを、はっきり意識して声にして、誰かにぶつけることができたら、そして誰かが明確に答を返してくれたなら、きっとタエ子はつかえていた重たいものが取れたようなスッキリ感を味わえるでしょう。

 あの1枚のテスト用紙に秘められている、タエ子の切なる心の声はいったい何なのでしょうか?

 それは、

「私は失敗してもいい。たとえ0点でもいいから、自分の納得行くようにやってみたいんだ」

という叫びです。私には、そんな声が聞こえるのです。

 我々大人は、すでに学習してあるいは体験して「できる」ようになったことがたくさんあります。その「できる」自分が「できない」子供を見たとき、「失敗はあってはならない」という想いに陥りやすいものです。

「失敗はあってはならない」……?

 そうでしょうか?

 我々大人も、「できない」から「できる」になるまでには、多くの失敗をしてきたはずです。

 はじめから、絵に描いたように、うまくできることなどないのです。何度も失敗します。でも、その失敗することを通して、それまで分からなかったことがわかり、それまでできなかったことができるようになっていきます。

 このような道を誰もが通ってきました。そして、後先の違いはあっても、今もみんなが同じ道を歩んでいます。

 たえ子が返してもらってきたあの算数のテストは、「あってはならないもの」ではなくて、かけがえのない一つの「通過点」だったと思えるのです。


 算数だけに限らず、どのような失敗も、それが結末なのではない。それを通過点として何かをつかみ、それを足がかりにして前進していく。

 大切なのは、失敗にくじけないこと。失敗しても、倒れても、くじけず起き上がり、また歩みだすこと。

 わたしたち、大人は、この気持ちを忘れずに持っていたいものです。



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