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030.分数指導からあらわになる深刻な問題点(1)

 

『分数ができない大学生』(東洋経済新報社)の第1刷が出たのは19996月だった。

 

私がそれを読んだのは、つい昨年のことになるが、書名だけは早くから知っていた。結構ショッキングな題名だったからだ。

 

けれども、昨年(2005年)読んでみて思ったことは、「この本の内容はもうすでに過去のよき時代のことになっている」ということだった。

 

 

 

まず、それについて説明する。

 

この本は、10名以上の有識者が書いているのだが、ザーーっと読んでみて私の読み取ったところでは、

 

小学校のときにとりあえずはできるようになっていた分数が、大学生になったときできなくなっている

 

ということを主張している。

 

1999年当時は、それが結構インパクト強かった。「えーーっ!? 分数ができない大学生!?」

 

ところが、今読んでみれば、インパクトはもはやそれほどない。

 

 

 

 

 

つまりこの6年間の間にもっと強いインパクトのある出来事に遭遇したからだ。

 

それは何か?

 

指導要領の改訂である。

 

アレが出る前に、私は強く反対した。

 

けれども、出された。そして、いろいろなところで、問題が噴出した。というか、現在も進行形で噴出している。新指導要領が出たから次の年からすぐにあらゆる問題が噴出するというものではない。次第に次第に蝕まれていくのである。(このことについては、別の稿を起こして論じなければならない。)

 

 

 

 

 

分数の話にもどろう。

 

今回の指導要領の改訂がなぜ、「分数ができない大学生」よりも、インパクトが強いのか?

 

 

 

それは、

 

「生まれて以来ずっと分数ができないままの子供、青年、大人たち」

 

を、今後、全国いたるところで生み出すことが予想されるからである。

 

つまり、一度、できるようになっていたものができなくなるなどという生易しいものではなく、初めから終わりまですっと、分数をできないまま人生を過ごしていく、というわけである。

 

 

 

この話の怖さはどこにあるのだろうか?

 

ただ単に、「分数ができない」ということではない。

 

分数を知らなくても、生きていくことはできる。分数を知らなくて生活に困るということは、それほどない。

 

 

 

分数が分からないから困るというような、そんな生易しいことではないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この話の怖さは、

 

 日本という国家が、義務教育で子供に分数を習得させるだけの教育力さえ失ってしまった

 

というところにある。

 

 

 

 

 

 

 

これは、単なる「分数の指導法」の問題ではない。(分数の指導法にも大きな問題点がある。今の指導要領を中心とした指導法では、分数が分からない子供がおおぜい出るのは当然のことだともいえる。これについては、別の稿で改めて論ずることにする。)

 

 

 

 

 

この6年間で大きく変わったことがある。

 

「学級崩壊」、「学校崩壊」という言葉が、それほど驚くべき言葉でなくなった、

 

という恐るべき事実である。

 

 

 

まず何といっても、学校現場、すなわち最も最前線で活動する教師が、このことをそれほど重大視しなくなった(?)ことが、重大である。

 

全員がそうだというのではないし、またどの学校でも一様にそうだというのではない。

 

しかし、「学校崩壊はさせてはならない!」という気持ちで、20年前と同じように動けば、その教師が浮き上がってしまい、学校にはいられなくなるというような奇妙なことがおこっている。

 

これは、いったい何を意味するのだろうか?

 

本当の自由と単なる自髄楽とを履き違え、いけないことをいけないとする規範意識はどんどん低下していく、この崩壊の波は、社会から学校現場に怒涛のように押し寄せている。

 

その大波の中で、教師自身も、どんどん変わっていっているのではないか?

 

ひと昔前のように、教師が自分を投げ打って学校崩壊を止めようとすれば、もはや教師としてはやっていけなくなる。崩壊の波に呑まれてしまうからだ。だから、自分の身を守るために、あえてそこまでしようとする教師はいなくなっていっているのではないか?

 

そう思われてならない。

 

 

 

 

 

さて。

 

「崩壊」してしまった集団の中では、正常な事が正常として通らない。異常な事が正常になる。

 

いじめを止めることは異常なこととなり、いじめることが当たり前となる。

 

学習について言えば、「勉強が分かる授業」はもはや異常なこととなり、「勉強が分からない授業」が当たり前となるのである。

 

当然であろう。「先生のいうことを聞かない」ことが当たり前となるのだから。

 

 

 

 

 

つまり、「学級崩壊」、「学校崩壊」という言葉がそれほど驚くべき言葉でなくなった、という現実は、上のようなことが日本全国どこででも起こりうる、それほど日本の教育現場の土台は軟弱な地盤となってしまったということなのだ。

 

 

 

 

 

そして、そのことに対して、国家が、何の有効な手立ても示せないという現実は、そのことをいっそう確証づけている。

 

たとえば「円周率は3でもいい」とした今回の指導要領の改訂は、いったい何を意味するのだろうか?

 

さらに、算数や数学の授業時数を減らしてしまったことは?

 

また、あの、「総合的な学習」の時間のほんとうの意味は? 教育に関わる者の大勢としては、何とかうまく進んでいるような顔をしているかに見えるが…。

 

算数・数学を教える学校の教師が、ほんとうにこれでよくなったと胸を張っていえるのか?

 

 

 

 

 

算数・数学を心を持って教えようとする現場の教師からすれば、もはや現場は惨憺たる状況である。何とか、身を粉にして支えようとはしているが。

 

週休2日制が問題なのではなく、「総合的な学習」を入れて、そのせいで算数・数学の授業時数を削ってしまったことが問題なのだ。

 

(実際、私立のある進学中学校では、「総合的な学習」などはない。代わりに、毎日数学の授業がある。したがって、国民全員の学力が低下するのではなく、文部科学省の言うとおりにしている忠実な公立学校の児童・生徒の学力が低下するのである。今後、経済と同じで、極端な「学力の二極化」が起こっていくに違いない。)

 

 

 

 

 

さて、今回の指導要領は出るなりすぐに「学力の低下」が叫ばれ、文部科学省も右往左往するという醜態を見せたものだが、文部科学省ともあろうものがなぜこんな素人でも分かる失敗をやってしまったのだろうか?

 

 

 

そこに、私は、先述した「崩壊の波」を感じるのである。

 

すなわち、社会の崩壊の波は、文部科学省をしてさえ、明確な回答を引き出せなかった、と。

 

 

 

しかし、今この堕落した日本で何ができるのだろうか、と考えると、果たしてどうすることがいいのか断言はできない。マスコミにもう少し責任感のある人がおおぜいいればいいのだが、今の視聴率至上主義のマスコミも、崩壊に輪をかけている。文部科学省だけで、どうこうできるものでもないのだ。

 

先送りとはいえ、今回の文部科学省の「よしよし、とりあえずこのアメ(総合的な学習の時間)でもなめておけ」プランは、あたりさわりのない、今の日本のお役人なら誰でも選ぶプランであっただろうとも思われる。

 

 

 

けれども、いまやこの国家は、経済の世界でも、問題を先送りして国家破産の危機に直面している。まったくそれと同じことが、教育の世界においても進んでいる。それは、動かしようのない事実だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほんとうに何とかしようとするのなら、「円周率は3.14」で教えていけるだけの「教育力」を公立の学校現場が取り戻さなければならない。「校則なんか守る気はないけど、学校へは行って教師に反抗するんだ」では、授業は成り立たない。

 

まず、授業の成立が最初に当たり前のこととして、なければならない。

 

それがあって、「安心して学べる」、「安心して教えられる」という環境の中で始めて、「分数の指導法」というものは意味を持つのだ。

 

今は、「分数の指導法」よりも、「授業成立の方法」が切実に必要な教師の方が多いのではないか? また、今後一層増えていくのではないか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この数年で年々、精神を病む教師が増えている。

 

精神を病んで、休職、あるいは退職に追い込まれてしまう教師の苦しみを考えると、「それでいいのか!!?」と、誰かに叫びたくなる。

 

その苦しみは、下手をすると、死につながるものだからだ。

 

 

 

もし、今そのような苦しい現実の中でもがいている教師がいたら私は声を掛けたい。

 

「がんばらなくていいよ。 休みなさい。」

 

がんばって何とかなるのなら、「がんばって!」だが、がんばってもどうもならない現実の中では、がんばったらいけない。

 

 

 

しかし、私は、そこに「教師の良心」を見る。日本社会の闇がたまたまその一点に集中して現れてしまった。そこに怒涛のように降りかかってくる「苦しみ」を、その教師が代表して引き受けてくれている、と見ることができる。

 

それを通して、他の者も、「そこに問題がある」ということに気がつくことができる。

 

教師みんなが普通の顔をして楽しくやっているだけでは(楽しくやること自体は大切なことなのだが)、肝心の何とかしなければいけない「立場」にある者が、いつまでも気がつかないではないか。

 

 

 

だから、今休職している教師は、決してそれは無駄な事ではないのだ。その苦しみは大きな意味を持つのだ。

 

 

 

 

 

ほんとうに何とかしなければいけない「立場」にある者は、まずこの現実を、早急に、真摯に受け止めなければならない。

 

日露戦争の旅順で、自分は前線の遥か後方の安全なところにいて突撃を命令し、前線の多くの部下を機関銃掃射にさらして見殺しにした、あの幹部のようになってはいけない。

 

それを強く訴えたい。

 

上に立つ立場の者は、身を持って部下を守って欲しい。

 

 

 

(決して、部下を評価して切って捨てることだけはしてはいけない。今、そういうバカなことをまた計画しているそうだが、直ちにやめるべきである。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう一度、分数の話にもどる。

 

小学校で、分数を習得せずに終わったらどうなるのか?

 

 

 

明らかである。

 

中学校で、数学が分からない

 

という厳然とした現実が待っている。希望を持って中学校に進学したとしても、多くの生徒は、「分からない数学の授業」あるいは、「ついていけない数学の授業」に、辛抱して座らなければならなくなるのだ。

 

 

 

こんどは、生徒にそのような苦しみを味わわさなければならない。

 

 

 

それでいいのか!?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数学教育研究所は、この回答を一つ用意している。

 

 

 

次は、純粋に、算数・数学の面から分析する。

 

ただし、これは、それだけで何冊も本が書けるくらいの大問題である。

 

 

 

別に稿を起こして論じなければならないのはもちろんだが、それもいくつかに分けた方がよいであろう。

 

 

 

まずは、今の問題点を看取るところからはじめるようになるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 


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